たくさん人を傷つけて、たくさん自分の心も傷つくと、
もう傷つきたくもないし、傷つけたくもないと思う。
裏切られたくもないし、裏切りたくもない。
自分をさらけ出すのが怖くなったり、
自分で自分が嫌になり、
ぶつかることから、逃げてしまいそうになっていた。
けど、そうじゃないと心のどこかで思っていた。
今日、Twitterをふわふわって読んでたら、心にささる言葉があった。
「人に裏切られたと思い、自分を閉ざすことは、その人に依存しすぎていたからではないか。」ということ。
人はひとりひとり、考え方も感じ方も、想いも、迷いも、いいところも、悪いところもある。自分とは、違う。だからこそ、ひとりひとりが存在する。
そこがわかっていれば、裏切られたという考え方がおかしいとなる。
裏切られたと落ち込んだり、悲しんだりしてしまうのは、本当にそこをわかっていないから、ではないだろうか。
違うんだということを受け入れること、覚悟があってこそ、はじめて人と人が一緒に何かを始めたり、作ったり、同じ時間を共有したり、それぞれの時間を大切にしたり、できるんだと思った。
そう、覚悟。
そして、自分のことを知ること。
そうすると、まわりの世界がちょっと変わって見えてきた。
うん、みんなそれぞれ。いろいろ。
だから、面白いし。
生きていくんだなと思った。
私の今の心は、どんだけ傷ついても、誰かを傷つけてしまっても、
正しいと思うことは伝えたいと思う。
嬉しいと思うことは伝えたいと思う。
そして、人を信じれる人でいたいと思う。
一度も傷ついたことのない人はいない。
返信削除また、一度も人を傷つけたことのない人もいない。
絶対に自分は裏切られないと自負できる人などいない。
そしてまた、絶対に自分は人を裏切らないと言い切れる
人もいない。
それは、人が完璧ではないから。
完璧な人などこの世にはいないから。
そして、自分もまた不完全な人間だから、
時と場合によれば、どちらの自分にも成り得ると思う。
傷つけば誰でも悲しい。
裏切りだと気付いたら、誰でも悔しい。
悲しい時はとことん悲しめばいいと思う。
悔しい時はとことん悔しめばいいと思う。
とことんまで落ち込んだら、後は浮上しよう。
悲しみや怨念や憎しみの壷の中でうずくまるのだけは
やめよう。
それは、自分を腐らせてしまうだけ。
壷の中で腐敗していく自分を見ているのはもっと悲しい。
傷ついたぶんだけ、人はご褒美をもらえるんだ。
傷つけたぶんだけ、人は人の痛みを知る勉強をするんだ。
どんなことにも意味はある。
どんなことにもちゃんと自分のために答えは用意されてる。
さあ、とーんとつま先で底を蹴って、軽やかに浮上しよう。
海面はもうすぐ、目の前に見えてる!